めちゃくちゃ話題になった4コマ「100日後に死ぬワニ」が物議を醸し出していますね。
で、なんで「100日後に死ぬワニ」が炎上したのかという考察も盛り上がっています。
そこで、大葉せんせいも書いちゃおうかなと。でも、たぶんワニ考察では後発組です。
あえて後発として発表するわけですから、それなりの考察をしようと思いました。
ということで、これが大葉せんせいの考える「100日後に死ぬワニ」が炎上理由です。
キーワードは、道徳、宗教、ルサンチマン、ニーチェ!
「100日後に死ぬワニ」が叩かれる理由の前提条件
まず、なぜ「100日後に死ぬワニ」叩かれているのでしょうか?
叩かれる理由は、こんな感じです。
- 電通が絡んでいる
- グッズの動きが早すぎ
- 書籍化・映画化ありき
だいたいこんな感じ。
つまり、なぜ多くの人がワニを叩いているのかというと、2つの理由が考えられます。
- お金儲けだから
- 作られた流行だから(宣伝によって流行になった)
ということで良いでしょう。
しかしよくよく考えてみると、宣伝によってお金儲けをするのは当たり前なので、①と②はセットと考えるのが良いのではないでしょうか。
つまり、みんなが怒って叩いている理由は、自然発生的に生まれた流行だと思っていたら、お金儲け為に宣伝で生まれた流行だったから。叩かれる理由を「お金儲け主義」と名付けましょう。
ワニが叩かれる理由が「お金儲け主義」だということを前提において、なぜワニが叩かれるのかを解説していきます。
100日後に死ぬワニが叩かれた理由は「お金儲け主義」だ!
ワニが叩かれる理由は、「お金儲け主義」にあるという前提を置きました。
そうすると思うのは、お金儲けが悪いとする流れって、今までも沢山あったよなってこと。
たとえば、ジャンプの値上げとか。ポテチの値上げでも叩く人が必ず現れます。
「お金儲け主義」が叩かれるのは、なんでなのでしょうか?
それは、我々の道徳が「我慢を美徳とする」からなのです。
たとえば、宮沢賢治先生も「雨にも負けず、風にも、うんぬんかんぬん、麦飯と味噌で十分だい!」という一説を手帳に残しています。
アリとキリギリスの童話からも分かるように、日本人に限らず、「一生懸命働き、贅沢はしない」というのは、美徳とされています。
なぜ私たちは、我慢を美徳とするような道徳観を待っているのでしょうか?
我慢が美徳の正体とは?
我慢を美徳とする我々は、「お金儲け主義」に走った「100日後に死ぬワニ」を叩きました。しかし考えてみると、なぜ私たちは我慢を美徳と考えるようになったのでしょうか。
我慢を美徳とする道徳感を作り出したのは、古典的な宗教です。それは、キリスト教でも良いですし、ユダヤ教でも、イスラム教でも、仏教でも、神道でも、我慢を美徳としているのです。
例えば、キリスト教では最後の審判に備えて、財産を持っていても好きに使うのではなく、多くの人のためになる使い方が求められます。仏教では、滝修行や千日回峰行のような厳しい修行が好まれる習慣もあります。
このように宗教は、基本的に禁欲的なもので、我慢を美徳としているのです。日本人は、特に宗教と無縁のようで、お寺や神社には参拝しますし、キリストの誕生日は祝いますしで、宗教が日常に溶け込んでいます。無宗教だと思っていても、自然と宗教的な考え方を道徳として持っているのです。
日本人は、特にそういった宗教を道徳に落とし込んでいますが、外国人も例外ではありません。アメリカでは、お金を儲けたら寄付をするのが当たり前という風潮があります。これも最後の審判で裁かれるという宗教感が道徳感に変化したもの。
「お金儲け主義」が我慢を美徳としている道徳感からきていて、その道徳感は古典的な宗教からきているのです。さらに深く掘り下げて、なんで宗教は我慢を美徳と考えているのかを考えていきます。
100日後に死ぬワニは、かく語りき
なんで我々は、「100日後に死ぬワニ」が叩かずにはいられないのでしょうか?
それは、キリスト教(宗教)がそうしたんだよってことを哲学者ニーチェが言っています。
さすがキリスト!やることが幅広いですね笑。
なんでキリストがワニを叩く理由になるのかというと、話は紀元前にまで遡ります。
紀元前15世紀、キリスト教の元になったユダヤ教の民であるユダヤ人は、エジプトに連れ去られます。
ユダヤ人は、200年もの間エジプトで奴隷として扱われるのです。考えるだけで、かなり辛い体験ですよね。で、モーセがユダヤ人を連れて、エジプトを脱出するんだけど、またまたユダヤ人は連れ去られて奴隷にさせられてしまいます。
もしみなさんがユダヤ人のような環境に身を置いたら、どんなことを考えるでしょうか? きっとこんなことを考えるはず「私たちは実は、選ばれし民族で、今は辛いけど、いつか神様がやってきてくれる。そして自分たちを奴隷として扱う奴らをぶっ殺してくれる」って。
でもこの考え方って、「養子に出されて遊女になった子供が、いつか大金持ちの親がやってきて、足抜けさせてくれる」って考えるようなもので、ようは都合のいい妄想なんですよね。
でユダヤ人はどうなったかというと、神様に助け出されることはなく、辛い日々を送り続けました。そこでユダヤ人は自分たちの宗教を少し変化させました。「苦痛を受け入れるのは、理由があるんだ。神様が私たちを試しているんだ。」と。「今はものすごく辛くても、頑張っていれば、最後の審判で報われる時がくるんだ」と。
こうやって、宗教は「我慢を美徳」として受け入れていったのです。しかしここで思うのは、「いつか神様がやってきてくれるんだ」って考え方は、「負け惜しみ」なんじゃってこと。
そのことをニーチェは、ルサンチマン(負け惜しみ・負け犬根性)と呼んでいます。このルサンチマン正当化する考え方は、現代にも引き継がれていて、社畜として働くのが当たり前という考え方が最近までは一般的でした。
ここまでくると、やっとワニが叩かれた理由が見えてきます。
今までの流れを簡単に整理すると…
- ワニが叩かれた理由は、「お金儲け主義」。
- 「お金儲け主義」批判は、私たちの道徳観(我慢は美徳)から生まれた。
- 私たちの道徳観(我慢は美徳)は、宗教から生まれた。
- 宗教はルサンチマンから生まれた。
つまり、つまり、つまり、つまり
「100日後に死ぬワニ」を「お金儲け主義」と叩くのは、ルサンチマン(負け惜しみだよ)なのです!!
ワニの流行が作られたものだったと叩く人の心の声は、こんな感じ
「100日後のワニを書いて大金を手に入れた作者が気にくわない」
「あんな微妙な出来の漫画で大金を手に入れてずるい」
「お金、欲しいいいいいいいいいいいい!!!!!!」
まとめ
100日後に死ぬワニが叩かれる理由として「きっとお金儲けに走ったからじゃない?」なんて事が言われていますが、じゃあなんでお金儲けは悪とされているのっていう話になってきます。
なんで「お金儲けが悪とされるのか」っていうと、私たちがそういう道徳の中で生きているから。「昔から貯金は良い事で、散財はいけませんよー」って言われて育てられてきた覚えは、誰しもがあるでしょう。
じゃあなんで「我慢が美徳とする道徳」を持っているのかというと、それは「古典的な宗教の戒律がどれも我慢を美徳」としているから。我々は、宗教とは無縁と思えても、実は宗教感を道徳感に変換して信じているって事ですね。
そして、さらになんで「古典的な宗教が我慢を美徳」としているのかということが分かれば、ワニが叩かれる理由の本質が見えてくるのです。
その理由とは、ニーチェ曰く「負け惜しみ!」
大葉せんせいも信じたくありませんが、論理を積み上げて考えると導き出される結論がコレなのです。
ワニを叩いている皆さん、残念ですが、それは「負け惜しみ」です。