映画『JOKER』が金獅子賞をとったというので、かなり期待して見にいきましたが、そんな期待を余裕で超えてくる作品だったなーと。
アメコミ原作ということもあって、どこかバカにしていたことを反省。
アメコミ映画って、もうすでにシェークスピアとか、そういう古典になりつつあるんだなと。シェークスピアにもいろいろなバージョンがあるように、アメコミも原作を背景としながらも、いろいろな解釈が入ってくる。
映画の中から監督の声が聴こえてきた「アメコミのヴィランって、多角的な見方をする複雑な研究対象にもなり得るような、面白い題材なんだぜ!」って。
この世界の暗喩になるだろう
監督のドット・フィリップスは、パンフレットの中で、『ダークナイト』が、そうだったように、『JOKER』は、寓話として作られていなくても、自然と寓話になると語っている。
『JOKER』がどういう寓話かというと、「この世界の本質は、絶望である。絶望に満たされた人間は、2種類に分けられる。頭の狂った悪か、それとも自分しか信じられない正義か。」
哲学者キルケゴールは、この世界の本質を絶望だと語った。というのも、人間は無限という概念を知っているが、人間自身は有限だからだ。人間は神という存在を知っているが、神ではない。そこに劣等感などの絶望が生まれるのだ。
しかし人の心は、酷いもので、他人の絶望は、面白いのである。ドイツ語でシャーデンフロイデという言葉がある。シャーデンフロイデとは、他人の不幸を喜ぶ気持ちのこと。日本語には該当する言葉はないが、他人の失敗を笑った経験は誰しもあるだろう。
社会の本質を喜劇王チャップリンは、「人生は、クローズアップで撮れば、悲劇だ。でもロングショットで撮ると喜劇になる」と言っている。
映画『JOKER』でも、「人生は悲劇ではなく、喜劇だ」というセリフがあるように、人間の本質を寓話にした作品なのだろう。
上級国民という言葉が流行る世界。労働者にも差が生まれている
映画では、主人公アーサーが、証券マン3人を射殺してしまう。その事件がキッカケで、「ピエロのビジランテ」として有名になり、暴動にまで発展してしまう。
これも『JOKER』が、社会を暗喩している。すでに労働者階級にも、階層ができている。証券マンのような、大きな企業で高所得者と、アーサーのような低所得者という階層だ。
最近ネットでは、上級国民というワードが流行った。上級国民とは、人間を社会的なステータスで、2種類にしたときの、上の階級のひとのことをさす。ネットでは、上級国民は、給料も高いし、ステータスも上で、しかも権利まで違っていると主張している。
この現象は、つまり社会的な格差に不満を持っている人がたくさんいることを示している。
社会に不満を持っている人は、少しの刺激で暴動やデモになる可能性がある。
それは、ジョーカーの殺人のような事件かもしれない。
信頼できない語り手
ジョーカーは、信頼できない語り手である。精神疾患を患っていて、映画序盤では薬を飲んでいたが、市の助成が打ち切られて、薬を飲むのをやめた。
そうすると、ジョーカーの見ているもの、映像として映し出されるものは、本当のことなのか確証が持てない。
ジョーカーとは、もともと原作でも信頼できない語り手である。ジョーカーの語る、口の裂けた理由は、毎回違う。
映画の観客は、何が本当かは分からない映像を見せられる。この体験こそ、ジョーカーに対峙した人が抱く感情ではないだろうか?
何を信用していいのか分からないという状況が、ジョーカーという精神性をうまく表現しているなと感じた。
ヒトラーを思い出す
私は、この映画をみて思い出した話がある。
『JOKER』は、1人のコメディアンだったアーサーが、悪の化身ともいえるジョーカーになるまでを描いている。
ジョーカーも悪に染まる前は、「世界に笑いを届けたい」という意思を持って、コメディアンをしていた。しかしコメディアンとしての才能はなく、徐々に悪に染まっていく。
この話って、画家を目指していたのに、挫折をして、政治家になったヒトラーを思い出すなーと。
もしヒトラーが画家になれていたら? 歴史にそんなIFは、ないのだが、考えてしまう。
もしジョーカーが、コメディアンとして成功していれば…そんなIFを考えてしまう。
おそらくヒトラーも世界に絶望して、悪に染まっていったのだろう。全ての救いがなくなってしまったら…私たちもジョーカーになってしまうんじゃないか?
ジョーカーは、異常なのだろうか?とさえ思ってしまう映画だった。
ジョーカーとバットマンという反社会性について
私は、反社会的な人間には、2種類いると考えている。
1つは、不良。不良とは、社会のルールに沿った行動ができずに、非行や犯罪に手を染めてしまう。つまり悪とも言える。
もう1つは、意識が高いと言われる人たちだ。意識が高いと言われている人たちは、社会のルールに縛られたくないと考えている。社会のルールに従って、なんとなく生きていたらバカをみる。そう考えているから、意識が高いと言われている行動をして、自分の周りだけでも秩序あるものにしようとするのだ。勉強・運動・お金を稼いで、自由を手に入れ、自分の周りに秩序もたらそうとする。つまり善とも言える。
2つの悪と善は、全く違うものに見えて、社会のルールに従いたくないという出発点は同じなのだ。2つも反社会性であることは間違いない。
ジョーカーとバットマンは、精神面がものすごく似ている。どちらも社会のルールに従う気はなく。絶望した社会に対してアクションを起こし変化させようとしている。
ジョーカーは、破壊することで世界を笑うことで、少しでも楽しいものにしようとしている。
バットマンは、自警をすることによって、世界を少しでも秩序のあるものへと変えようとしている。
ジョーカーとバットマン。どちらのやっている行動も、犯罪である。つまり反社会性と言えるのだ。
『JOKER』のパンフレットが、パンフレットの正解を出した
今回映画が面白かったので、パンフレットを購入。いろいろなパンフレットを買ってきた中で比較しても、『JOKER』がパンフレットがかなり良かったよーという話をします。
本当にパンフレットって、さまざま。
テキトーに写真を載っけているだけのパンフレットも有れば、謎のオマケカードをつけて、1000円を超えるものもあります。
しかしパンフレットを買う人は、そんなもの望んじゃいない!
望んでいるのは、映画をもっと面白がれる知識だ。
なので映画撮影の裏話とか、役者インタビューとか、基本として、映画批評を載せて欲しいんですよね。しかも映画批評は、1人だけだと、意見が結構偏るので、何人かの批評を載せて欲しい!
『JOKER』のパンフレットには、6人もの批評が載っている。しかも、映画評論家だったり、社会学者だったりと、肩書きにもパラエティがある。
いろいろな人の視点から多角的に映画を見てみるのが、結構面白いなーと。
まとめ 映画を見た後に見える世界
正直「この映画かなり危険じゃないかな?」と思う。
というのも、ジョーカーにかなり感情移入してしまうからである。
私が映画をみたのは、丸の内ピカデリーだったので、見終わった後に有楽町をブラブラしていた。しかし映画をみる前と後で街の見え方が、なんだか違っていた。
映画を見終わった後には、この街は見せかけだよなーとか。本当の社会を写していないとか。考えてしまった…
『JOKER』に感情移入するあまり、ゴッサムシティの方がリアルに感じてしまったのだろう。
アメリカの映画館では、『JOKER』を子どもに見せないように呼びかけているらしいが、正解だなーと。
あらためて『JOKER』って、すごい。